自分のプログラマとしてのレベルを考えることよりも大事なこと
前回のエントリで自分のレベルは自分では測れないという話をしたのだけれども、よく考えてみると、少し前の(それこそ5年くらい前の)自分を思い返してみると、ちょっとした回転やベクトル系の演算になるとものすごく頭を捻って考えていたように思う。
今は多少はベクトルなんかが出てきても難儀しなくなった。これには触れているコードや書いているコードが「良質かどうか」はあまり関係ないような気がする。
要するに、そういう「系」のコードばかり書いていると、そういう系の処理には強くなるというだけのことのように思う。3D プログラミングのような、数学的な理解を求めるものが多い分野にばかり没頭していれば、きっと自然とそうなっていく。レベルの高低ではなく、そういう系のプログラマになっていくのだと思う。
クラスという概念のない、あるいはあまり利用しなくてもどうにかなってしまう言語ばかりを使ってればそうなっていく。そういう系のプログラマに。
そういう言語を扱っていても、クラスの性質や利便性を理解しているかあるいはクラスを使わないと話にならない言語を既に十分理解している場合、きっとクラスの概念のない言語でもクラスみたいなことをなんとかしてやろうとする。そういう系のプログラマになる。
コードの水準、あるいはプログラマのレベルの高低は自分では測れない。
また、他人がそれを測ることも、ある意味では難しくまた無意味なのかもしれない。
大事なのは、自分がどういう「系」のプログラマでありたいのか。そのビジョンの純潔さとそれに対する信念の強さだと思う。
それに鑑みて、自分は強烈なビジョンと信念を持っているだろうか。
自分がどういう系のプログラマでありたいのかわかっているだろうか。
自分は WebGL が好きだ。
将来的にはクラスプラットフォームで動作すると考えているし、そのビジュアルとしてのインパクトの強さ、実行速度の優位性も高いと考えている。今後確実に普及していくと思うし、ある程度リッチなウェブコンテンツを作ろうと考えたときに確実に選択肢の候補にあがる存在になると信じている。
だからこそ、この WebGL の魅力を世に伝えたい。
あるいは WebGL を始めようと考えたプログラマの助けになりたい。
願望だけではだめだ。こうしたいという思いだけではだめだ。優れた成果物としての example と、それを明確に理解させるための文章構成力が必要だ。同時にそれが人の目を惹くものでなければだめだ。誰かのためにそれを書く以上、見つけてもらうことができなければ意味がないからだ。
今はまだ、私は WebGL をただ単語として叫んでいるだけで中身が伴っていない気がする。もっと中身のあるプログラマにならなくてはいけない。声高に WebGL すごいよ! と言っているだけではいけない。
人々を魅了するコンテンツやサンプルをもっと作らなければ。
コードの可読性は極力高いものにしなければ。
それは解説テキストを伴うものであることを前提として作らなければ。
コンスタントに、そして常に新しいものを、紹介解説し続けなければ。
たとえ教科書に載ってるみたいなコードでも、それが私が目指すもの。
そういう系のプログラマに私はなりたいんだ。